light out for the territory

Of two sons: one who had lived his life for minutes, another who came back from the verge of death.

2012-01-30

空白と余白の間

 前の息子が妻の体に宿ったと知った時、私は全身から力が抜けていくのを感じた。まるでそれまで体と魂を縛っていた古来からの呪いが、数千年の時を経てようやく祓われたような、そんな脱力感だった。私はそれを自分自身の終焉に喩えたことがある。俺の人生は、終わったのだ、そんな風に。でも、それはまったくの見当違いだったことが今では分かっている。子どもが出来るということは、子どもの命と死の両方に対して、再び怯え始めるということに他ならない。私にとっては、失われた命の重みを永遠に数え直しながら、新しい命をそれでも言祝ぐことの分裂の中で、自分をなんとか保つということに他ならない。だから私は今、生と死の狭間で、いつもそのどちらにも所属しきることなく、再び重みを持ち始めた私自身の人生について、考えざるを得ない。私の人生はまったく終わっていない。あの祝祭の瞬間、全てが終わったという誤解のエクスタシーの中で、そのまま死んでいたらどんなにか私は幸福だったろう。喩えそれが、今の私には結局のところ偽の幸福であり、突き詰めた先には鏡に映ったナルシスの問題であることがわかっていたとしても、だ。

 ただ、その脱力感自体の残滓は、残っているのかもしれない。というよりも、あの瞬間以後、私は二度と精神的な緊張というのを持てなくなっているのかもしれない。心地よい緊張も、冷や汗のながれるストレスも、そのどちらも今の私にはあまり関係のない真昼の月のように、遠い場所にある。思えば私の人生は、基本的に絶えざる緊張を強いられる人生だった。小さい頃のイジメから始まり、学業の巨大なプレッシャー、自分自身の内側から引きも切らず沸き上がってくる憎悪と反抗の衝動、何もかもを否定しないではいられない自己保身、それらが綯い交ぜになって、私は私自身という演劇の舞台を常にスポットライトで光らせないでは済まない、そんな自己愛的な性格を耕して行く。私の人生は、いわば一個の劇だった。私によって演じられ、私によって鑑賞され、私にとって楽しみであり苦痛でもある、内的独白劇。それらはどこに行く宛もなく、何の果実も結ばない、中学生の自慰の様に無心で無意味な快楽の追求だった。それが苦痛に高じても、強いて快楽だと思い続けて、私はそれを演じ続けた。

 息子がこの世界の奥底に小さな命を得た時、それが結局のところ、花開くことはなく再び全て奪われた後になった今でも、あの瞬間の力が抜けて行く感覚は、未だに私の中に小さなよすがとなって残っている。あの子と私を繋ぐものがあるとすれば、もはやそれくらいしか残されていない。私は、あの全てが終わったと感じたときの、私という人間を捨てても良いのだという喜びを、そんな「私」さえ持てなかった息子との、わずかな絆として受け取っている。時々そのために、私はもう自分が何も出来ないということをしみじみと実感する。私は、何の価値もないただの木偶になったからだ。生きるということが演じ、欺き、奪い、損なうことだとするならば、それら全てに対して私はもう、良い意味でも悪い意味でも隔たりしか感じない。誰かが何かをやろうと、誰が何を見いだそうと、誰が何を失おうと、結局それがどうしたのだ。私の外で起こりうる全てのことに対して、喜んだり怒ったり、そんな素振りをもう私は必要としなくなった。他人に対してではない。自分に対して、私は、自分が何も感じないものを、感じているかのごとくに振る舞い、欺く必要がなくなったのだ。だって、私の半分はもうここには存在しないのだから。その軽さ、その惚け、その静かさ。今の私はそれを祝福だとしか思えないのだ。

2012-01-23

何を書いたところで

 ナサニエル・ホーソーンは、現実と夢の間にだけ物語が入り込む余地があると150年前に語った。それを彼は、ロマンス空間と名付ける。小説が生まれ得る空間、程度の意味だと思えばいい。現実と夢の間、その二つが混合する場所。まるでトワイライトのような色合いのそのあやかしの空間で、ホーソーンは小説を書いた。明でも暗でもなく、ほの暗く、誰もがそこで迷う、古い森のような小説。私がはまり込んでいるのは、多分そのような中間の場所なんだろう。しかし私のいるそこに物語はなく、色合いはもっと薄暗く、もっとコントラストは低い。サチュレーションが低いその空間は息苦しく、時々私はそこで大きく息を吸い込むが、鼻から吸い込む空気に混じるのは、どこかで嗅いだ消毒液と薄く引き延ばしたかすかな血のにおい。

 私の人生に突然死が増え始めたのは、3年前からのことだ。親しかった友人、優しかった祖母、長く面倒を見た高校生、それから待ち望んでいた息子。与えられるべきだった命を最後まで全う出来ないままに失われた彼らの最後の顔のことを、私は時々記憶の底から引っ張りだす。それらは時間が経つにつれて、私の一番深い場所へと、重力の法則に従って沈んで行く。思い出す顔は、いつもその一度前の顔より幾分ノイジーで、今では彼らの顔は、輪郭を残すのみになった。私は集中してそれを思い出そうとする。苦悶の表情、苦痛の表情、驚きの表情、そしてこの世で最も美しい表情。克明に覚えていたはずの顔が消えて行くにつれて、私の中の彼らの記憶もまた、同じように消えて行く。それをたぐり寄せる。深く沈む。そうやって沈んで行くと、時々しばらく帰ってこられなくなる。浮かび上がりきれないで、心が彼らと共に一緒にいる時、私の半身がその空間に、ホーソンが名指したあの空間にいる。

 浅く、ただひたすら茫漠とした空間で、私は多分とても寒い。そこには私以外の誰もいない。もう失われてしまった彼らのことを思って私はそこにいるが、彼らはもう戻ってこない。戻ってこない。書かれるべきだった物語の断片を拾い集めながら、私はその遺骨を手にしてどうすれば良いのか途方にくれている。もうこれ以上、どこにも行けない。

2012-01-08

テレホーダイの時代

f:id:idiotape2:20120107215642j:plain

 かつて、インターネットの商用サービスが始まったばかりの1995年頃、テレホーダイというNTTのサービスがあった。夜11時になると朝の8時まで、電話料金が4000円だかの固定料金に切り替わるというサービスだった。かつてインターネットへの接続は、ダイヤルアップという電話番号をピポパとならして繋いでいたものだから、その固定料金サービスが無い時のネットは悲惨だった。一枚のエッチな画像を落とすだけで数分かかるような時代だったから、始めて目にする無修正ヌード写真を時間も忘れて見ている間に、何千円もの課金がされることもあった。ネット時代の需要に合わせて出て来たテレホーダイは、そんな我々初期インターネット戦士には、救いの神だった。夜の11時前になると、皆が固唾をのんでPCの前に座った。針が11時を示したら、それが合図だ。全国の電話がピポパと鳴って、夜のネット世界が始まる。その頃百花繚乱のごとくに花咲いていたチャットルームは、直前まで、声なき幽霊が徘徊する古代文明の遺跡のようにひっそりとしていたものが、11時を回った瞬間、雪崩を打ったように人が集まり、瞬く間にそこは収拾のつかない井戸端会議室へと変わった。グーグルの支配がなかった時代、どんな情報も掲示板に溢れかえっていた。電話や住所の個人情報、愛の告白、憎悪の呪詛、いやな上司の悪口、期末レポートのコピペ、旅行契約に映画の約束、見果てぬ未来の夢と失われた過去の想い出。永遠に光のあたらない月の裏側の世界は、かまびすしい言葉に溢れ、次の瞬間には何が飛び出してくるかわからない熱気に包まれていた。冷たい冷たい夜の世界には、今ではもうどこにも見られなくなった初心な情熱が刻まれていた。楽しかった。

 当時18歳だった私もまた、すぐにネットに取り憑かれた。大学の授業をよそに、23時の開幕の時間を日々待つ。ネット恋愛も経験したし、詐欺に近いことも経験した。色んな可能性を目にしたし、大きな夢を見たこともあった。色んな人と出会い、色んな人と別れた。18歳まで地元を出たことがなかった私にとって、そこは日本語の通じる外国の大都市のようだった。ニュービーとしての数ヶ月が過ぎた後、私もまたその中のメインプレーヤーになるべく、色んなことを始めた。文学談義のための掲示板、バンドメンバーを集めるミーティングシステム、中古品売買のためのホームページ。その後大きなポータルによって統合されているサービスを、思いつくがままに色々はじめて、すぐに潰れて行った。その中で、一つだけ上手くいったのが、大学生だけを対象にして毎日あったことをうだうだと喋るチャットルームだった。初期のtheが付いていた頃のFacebookのようなクローズドベースの情報交換の場。CGIを自分で組んで、色んな機能を付けたチャットルームは、当時としてはなかなかのものだった。そこで、多くの人と出会った。その中に一人、プログレミュージックと村上春樹が好きな大学生がいた。私より一つ年上のその学生は、もの静かだが情熱的で、その時すでにプロを目指して音楽活動をしていた。私は彼と話すのが好きだった。Dream Theaterが好きで、『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』が好きという、普通は結びつきづらいその二つの共通点のために、色んなことを話した。時にチャットでまとまらなかった意見は、長い長いメールとなってテレホーダイの回線を飛んで行った。夜の11時に出した便箋十枚に至ろうかというメールに対して、朝の8時のテレホーダイが終わる直前の時間に、返事が来たこともあった。何の話題だったのかはよく覚えていない。ただ、そうした一連の時間は、私にとっては今でも忘れ得ぬ大事な時間として、色んな記憶から聖別され、格納されている。いつもは忘れているのに、何かの拍子があればすぐに取り出せる大事な宝物のように。

 彼は大学卒業後、プロのミュージシャン/作曲家として成功した。我々が大学を出る頃、ネット世界はYahooやGoogleによって加速度的に再編成される過渡期で、情報が集積/収集される現在の世界が出来始めた頃だった。自然、大量にそこらに開かれていたチャットルームは、自己防衛のようにして非公開となるか、消え去ることになった。一時期のあの幻想のような熱情は瞬く間に消えて行った。月にはもはや、どこにも裏側はなかった。燦々と輝く明るい光によって、インターネットはどこもかしこも誰かが誰かを互いに見張る監視塔へと変貌して行った。私があの頃に出会った多くの友人たちと、大学を出たあとに音信が途絶えて行ったのは、自然なことだった。

 彼が自殺したというニュースを目にした時、私が思い出したのは10年以上前のそんな日々のことだった。大学卒業後、私は何度か彼の名前をメディアで目にしていたが、連絡を取るようなことはなかった。私は私で忙しかったし、それに、あの時代に共有した時間は、それ以後の私にとってはまるで夢のようで、今ひとつ現実感を持てなかった。でも、風化して消え去ったと思っていた記憶と情熱は、それでもやはりかつて、どこか今では見えない場所に確実に存在していたことを、私は彼のニュースに接して知る。CDラックの中にまだ残っていた彼の最初のCDをかけたとき、彼と交わした多くの会話の断片が、私の中によみがえった。彼がどんな気持ちで、何に影響を受けてこれらの曲を書いたのか。チャットやメールの中に残された彼の想いは、まだ私の中にくっきりと残っていた。それを私は、今思い出している。彼が残した最初の音を繰り返し聞きながら。

 最後の曲の歌詞の一部をここに記しておく。彼が何を想って自らの命を絶ったのかは、今の私にはわからないが、ここに記されている歌詞はかつて瞬間的に交わって、眩い光を放った記憶へと、間違いなく続いている。

   The End of The Innocence

   With so many left behind

   答えのない問いかけ

   いつか知る祈り

   

   The End of The Innocence

   With so many left behind

   埋められない欠落

   灰色の壁

   ここから歩き出そう

               (長瀬弘樹 "The End of The Innocence")

おつかれさま。おつかれさま。どうか安らかに。

2012-01-07

構図と解放

 大学入試に失敗した時、残念だとか不服だとかいう感情は殆ど湧いてこなかったのは、私自身が自分の勉強量の少なさを一番良く知っていたからだ。前後の受験生が受かり、私の番号だけがないのをもう一度確認した時、心に浮かんだのは「やっぱりなあ」という自嘲だった。

 小学校の頃から勉強は得意だったように思う。小学校も中学校も高校も、あまりテスト勉強というのをしてこなかった。テストにおいて問われているのが、「何を知っているか」ではなく、「何を知っていて欲しいか」であることを、私は小さい頃から理解していたように思う。人の顔色ばかりを伺って生きてきたために、私は「この時の作者の気持ちを答えなさい」が、無類の得意だった。誰の「気持ち」だって私は先回りして理解できた。塾へも行く必要は無く、授業中の傾向から類推したテストの解答は、学年で一番になるほどではないにせよ、上から数えて10何番の成績を取るには不足していなかった。成績表には10はあまりなかったが、9が並んだ。苦手なのは美術と技術で、それ以外は大抵9だった。そのような私の生き方は、拡大された「このときの作者の気持ちを答えなさい」ゲームである受験でも同じようにうまくはまった。前日にドラゴンクエストをやって怒られても、私は隣県の名門中学や、県下の名門高校にすんなりと通って行った。問題は、何を知っているかではなく、何を知っていて欲しいかを正確に見抜くこと。小学生の時に鶴亀算を方程式で解いて怒られた時に、私はそれを理解した。必要なのは正解を示すことそのものではない。出題者の望む道筋をトレースすることにあると。

 大学の入試で馬脚を現したのは、そういう私の人生から起こりうる宿命的なつまずきだったと思う。センター試験を首尾よく9割オーバーでクリアしたにも関わらず、私は二次試験に失敗した。思考をするという努力を放棄し続けて来た人生のツケを、私はそこで払った。払い終わった後、私に残ったのは中途半端な人工無能だけだった。自分から考えるという手管を知らず、入力された乱数を元に人の考えをトレースすることばかりにかまけていた結果、私は「ゼロから考える」というやり方がわからなかった。自由に考え、自由に動き、自由に声をだし、自由に選ぶこと、それらを私は何一つ知らないことを知った。浪人の時、だから私は短絡的にこう考える。考える方法を教えてくれる学問を学ぼう。哲学科を選んだのはそういう理由からだった。しかし、その選び方からして、私はやはり人工無能だった。自由に考える「方法」を、私はまたトレースしようとした。結果、哲学から何一つ私は学ぶことが出来なかった。うずたかく積もった人生の残骸を前にして思ったのは、このままではダメだという苦い自覚だけ。しかし、私は何をすれば良いのか皆目わからなかった。そして皆目わからないまま、ふと昔、小学校に入る前に毎日のように通っていた図書館のことを思い出した。あの頃の私は本を読むのが好きだった。本の山を前にして、孤独の時間を全てそこに費やした。両親は夜まで不在で、私はただ一人、いろんないろの本を手に取って、心の隙間に文字を埋め込んで行った。楽しかった。楽しい気持ちを思い出したくて、文学を選んだ。それは、私の人生ではじめて私の気持ちに沿った選択だった。誰のものでもなく。哲学科から英文学科へと移った。ほんの少しの間だけ、楽しく私は学べた。

 大学院に入った時に感じたのは、私はやはりトレースするのが得意だと言う苦い自意識だった。それでも選んだ道である以上、義務的に、事務的にこなさなければいけない。入学当初、文学への熱い気持ちを思うがままに謳歌していた23歳の私は、25歳になって修論を書き終わる頃にはすっかり象牙の塔のしきたりに絶望的に降伏した。私は今や、かつてのようなトレース機械へとまた成り下がった。ただ、前のように上手くは、もう出来なかった。かつて大得意だった「このときの作者の気持ちを答えなさい」ゲームは、心に巣食ったカビのような疑惑と、思考を浸食するノイズのために、常に脱線気味だった。私の作る論文は、出来上がった段階ですでに千回のコピーを経たすり切れた原稿のように、思考が読みづらかった。あらゆる批評家の思考を片っ端からトレースし続けた結果、私が書いたにも関わらず、私のものでは絶対にありえない、気持ちの悪い文章が出来上がった。見た目が奇麗に整えられた文章である分、その中核の不在は顕著だった。そしてようやく私はそこで思い至る。まさにこの論文は、私そのものではないか。私が書いたのに、私はどこにもいない。私は出来上がった数十枚の論文を前に、再び途方に暮れた。結局私はどのようにもなり得ず、神話のキマイラの様に、出来ることと出来ないことの不細工な合成でしかなく、何一つ満足な成果に至ることはなかった。

 私が写真を好きになったのは、多分、始めて私が知らない「構図」の世界がそこに広がっていたからだろうと思う。小学生の時、始めて撮った写真を母に嘲笑されて以来、私は写真という物が大嫌いだったが、その嫌悪故に私は表象芸術のイロハさえ知ること無く、30歳を迎えることが出来た。今私は、色んなことをダメにし、何も出来ない、人工でさえない無能になったが、その過程において何が人を無能へと駆り立てるかという力学だけは知ることが出来た。私は強いてハウツー本を避け、意味の無いデータを蓄積している。その野放図な快楽こそ、多分本当は、小さい頃に砂山の上で雄叫びを挙げながら、全身に充満させるべき快楽だったのだ。私は30歳も半ばを越えて、ようやくスタートラインの場所を知る。

2012-01-05

煙か血

 コースを変えた。昨日の琵琶湖の印象が強く残っていたために、いつものコースから外れて、今日は大津駅に向かって上がって行くコースを取った。バスの終着点のために空気は汚れていて、幅の広い奇麗な道を走っているのに、妙な窮屈さを感じる。左手には裁判所があり、私はここに2回行っている。一度は参考人として、一度は被告として。そういうせいもあったのかもしれない。呼吸は苦しいばかりで、あまり楽しいランニングにならなかった。

 大津駅の前から右手に折れて、なだらかにスロープ状の坂道になっている商店街を走りおりる。琵琶湖の沿岸を走っている時とも違うし、バスが頻繁に走る国道を走っている時とも違う、生活のにおいが空気の中に濃縮している。どこかの家が食べた焼き肉のにおいやトイレのにおい、古い木造建築の腐敗のにおいや建築途中のマンションのコンクリートの破片のにおい。そういうのに混じって常にその背後にあるのは、煙のにおいのようだった。タバコのにおいなのか、それともどこかの家がカレーを炊きすぎて焦がしたのか、なんの煙かは分からないが、遠い遠いところから集まってきた全ての煙の臭いが、まるで薄い雲の様にすべてのにおいを覆っている。喉の奥、鼻の根元にそれらを捉えながら、それはまるで血の臭いのようでもあると感じる。

 脳性の外傷、例えば脳挫傷や脳内出血を起こした患者は、その直前にこげた臭いを感じると聞く。私の息子も、あの保育器の中でそのにおいを感じたんだろうか。二度目の脳内出血を起こした時、私がふと考えたのはそんなことだった。幸い息子は、二度の脳内出血をともに軽い程度で切り抜け、水頭症を起こすこともなく、今のところ障害という形ではその影響は表れていない。勿論、この先どうなっていくのかはまだまだはっきりしない部分もあるが、脳の中に傷を負ってこんなにも健康に育ってくれるなら、親としては僥倖を感謝しないではいられない。あの時、二度目の出血の時、人生で始めて私は自分の膝が笑うのを経験した。自分の体が自分のものではないような遠い感覚になり、私は奇麗に磨かれて塵一つ落ちていないNICUの床に跪いて泣いた。自分が床にへたり込んだことも、泣いていることにさえ、最初は気付かなかった。自己欺瞞、自己陶酔、演技、戦略。そういうのとは違う涙があることもまた、この時に始めて知った。

 生活のにおいの中に煙がある。それは死を焼くにおいでもあるし、流れる血のにおいでもある。走りながら喉の奥にそれが残るのは、そこに人が死に、生きているからだ。私の息子が死に、私の息子が生きていることと同じことが、暗い夜の闇の中に沈む全ての人々に等しく訪れているからだ。私はそのことを始めて知る。一千回の後に始めて知る。

2012-01-05

黒い水

 基本的に、雨が降ろうと雪が舞おうと走ることにしている。最初はわずか数百メートル走るだけで体が悲鳴をあげていたのに、今では5キロを30分で走っても少し息が上がる程度に心肺が強くなった。冬の空気は、特に最近の夜の空気は、肌が切れそうな程に鋭いが、その鋭さは鮮やかで、肺に吸い込むのが気持ちがいい。細胞の一つ一つが冬の空気を求めているのがわかる。そうやって走るのが少しずつ楽になってくると、周りを見る余裕が出てくる。私が走る琵琶湖岸のコースは、近隣の住人全体にとって絶好のコースで、こんなに寒い中、たかが30分のコースでも多いときは10人くらいとすれ違う。大抵は、私と同じ30代前後とおぼしきランナーたち。20代はあまり見ない。次に多いのは多分50代以上の方。多くは夫婦で、老後に向けた健康維持という風情。走るというよりは、いそいそと歩く感じ。そういう人たちとすれ違う内に、妙な共感のようなものを私は感じている。別に言葉を交わすわけでも視線をかわすわけでもない。走ってる間に彼らのことが気になるわけでもない。彼らのことが気になるのは、寒い寒い雨や雪の日、そう、今日みたいな他に誰も走らない日に一人で走っている時に感じるのだ。街灯が落ちて、真っ暗な琵琶湖の沿岸を一人で走っている時、まるで私はこの世に残された最後の幽霊になったような気がする。吹雪く雪で顔も髪も硬直し、筋肉は痛みを訴える。そんな中で一人走っている時、私は無意識に、かつて同じ場所を走っていたランナーたちのことを少し思う。私が彼らに無意識に共感していたことを。いまでは次元の違う宇宙で家族と団欒の時間を過ごしているだろう、彼らのことを。

 暗い吹雪の道を一人で走っていると、体の片側に黒々と横たわる琵琶湖のうねりを否が応でも意識する。琵琶湖のうねりは、海の様に大きく満ち退くわけではない。まるで、今では失われた巨大な巨大な太古の生物が、大きな息を吸ったり吐いたりしている時に地面が揺れるように、小さく大きく揺らいでいる。それは、日の光の下で見る時には長閑な午睡のような穏やかな姿を見せる。太陽の光を細かく反射する湖面は、私のような滋賀県に育った人間にとっては、精神の原風景として刻み込まれている。でも、滋賀の人間も夜の湖面を長々と見ることはあまりない。釣り人でもない限り、我々は夜に眠り、朝に目覚め、昼に働く。夜に走るようになって、特に今日みたいなくらいくらい雪の日にも欠かさず走るようになって、私は夜の湖面の黒の濃さがこれほどに濃いことを始めて知った。昼のそれとは違う、まるで深い悪意の塊がいまにも襲ってきそうなその黒い水は、私の走る意識の横数メートルのところで、じっと私を見据えている。果たされなかった約束、忘れられた愛情、永遠に呪われた憎悪。世界から認められず死んで行った人間の虚数。まるで指輪物語の意志ある黒い森のように、吹雪の夜の湖は私の血の熱を欲しているような気持ちがする。私は走って走って、徐々に恐れ、そしてその内、引きつけられて行く。足が止まる。

 湖から一本の細い波止場が伸びている箇所がある。波止場というか、括り付けられた艀というべきか。それは湖のゆったりした満ち引きに合わせて、わずかに揺らいで、暗い湖面の上に立っている。その上に立って私は考える。今ここから落ちたらどうなるんだろう。吹雪く雪の中、あたりにいるのは私一人だ。誰も外は見ていない。走る車も、正月休みでまだまだ少ない。湖面に吹く風は、陸よりもさらに苛烈だ。比叡山から下りてくる風は、遮るもののないままに、その最初の暴力を私の体に叩き付ける。数キロのランニングの後、わずかに暖まって汗ばんだ体は、湖の上に出た瞬間その風に巻き込まれ、それは一滴の熱も逃さないというように、私から根こそぎに奪って行く。すぐに震えだす体は、走ることを要求する。それをなだめ、すかして、私は上から底の見えない湖面をじっと眺める。ここから落ちたら、多分その瞬間に体は凍え、手足は言うことをきかなくなるだろう。この辺りだったら、もう湖面まで泳いで行く気力さえ出ないかもしれない。そうして私は、黒い黒い湖面の下に、ゆっくり沈んで死んで行く。私はもがくだろうか。それとも、一瞬くらい生のまねごとで水を掻く真似をしたあと、そのドラマに嫌気がさして鉛のようにずんぐりと沈んで行くのだろうか。沈みながら眺める空の色は、水の色と同じ真っ暗だろう。私は全ての光から遮断されて、冷たさも暖かさもわからないまま、ぼんやりと死んで行くことだろう。それはある意味、素晴らしいことのように思える。

 一瞬そんなことを考えた後、殆ど無意識に足が動きだす。リズム通りに足を前後させることで強制的に発生する熱は、私を湖面から機械的に遠ざける。そうして国道を走る車の光を目印に、私はまたランニングに戻って行く。200メートル先にある信号が、ちょうど赤信号になったところだ。私が到着する頃には、青信号をうかがおうという時刻になるだろう。私は足を止めることなく、あの信号を渡ることが出来るだろう。それはまた私にわずかな達成の予感を感じさせる。血が巡り、足が暖かくなる。背中は黒い黒い水を。

2012-01-02

旧年の最後

 風呂場で考えることは、大体三つくらいのことだ。一つは論文のこと。もう一つは仕事のこと。その二つともに喫緊の用事ではないとき、何も考えずにぼんやりとするか、一人目の息子のことを考える。暖かい水と暗い空間のこと。

 子宮の中には赤ん坊を保護するための物質、羊水が満ちている。それが無くなったとき、彼の運命は決まってたのだろう。かろうじてわずかに残っていた羊水に半身だけ浸して、彼は最後の数日、空洞の闇の中で過ごした。彼は寒かったのだろうか。彼に恐れは。包み込んでいたあたたかな命の水が、ある日前触れもなく急に彼の周りから引いた時、彼はどんなことを感じたのだろう。私はそのことを考える。その寒さとその暗さとその不安とその恐怖を考える。急な環境の変化が訪れたにも関わらず、医者が見せてくれたMRIの画像の中で彼の心臓は力強く打ち、彼は生きていた。その姿は、まるでまだまだいけるということを主張するかのように、激しい生命のビートを刻んでいた。やがて来る終わりの時間をわずかでも引き延ばすかのような、孤独な戦いに見えた。応援も出来ず、私がここにいることも伝えられない命の動きを、私はただもう泣きながら見つめていた。

 羊水が戻る可能性がないことが明確になり、わずか数分の時間をこの世の中で過ごすために外に出て来たときも、彼はまだ生きていた。その間の彼の時間、彼の命、彼の感覚。それを思うと、私は酷くつらい気持ちになる。赤ん坊に意志や感情が宿る瞬間がいつ頃からなのかわからない。もしかしたら、彼はただ、全てがぼんやりと曖昧なまま、来た場所に帰っていっただけなのかもしれない。でもそうでないのかもしれない。我々が悪夢の中で感じるように、意志のある闇に纏わりつかれて、訳も分からぬままに苦しい夜を過ごす時のように、まだ分化さえしていない脳髄の中心で、彼の意志となるべきもの、彼の感性となるべきもの、未来へと長く長く伸びるはずだったそれらは、彼に何かを伝えていたのかもしれない。私の想像力はそこに至ることが出来ない。私は、保育器の中で10本も管を繋がれていたときの二人目の息子の苦しみさえ、想像することが出来ない。ぼんやりとした薄い膜の向こうに広がる彼らの世界。一つは閉ざされ、もう一つもまた閉ざされかかったその向こうのことを、思い描くことが出来ない。